大判例

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最高裁判所大法廷 昭和23年(れ)397号 判決 1948年7月29日

主文

本件上告を棄却する。

理由

辯護人安田清治郎、山田鷹夫、十川寛之助の各上告趣意は末尾添付別紙記載の通りである。以下各その論點につき理由なき所以を説明する。

辯護人十川寛之助の上告趣意に付て

第一點及び第五點に付ては後に安田辯護人の上告趣旨第五點と共に説示する。

第四點 人が自己の住宅内においておく物は特別の事情のない限り事実上支配し得る状態にあるものである。故に原判文に何等特別事情の記載もなく單に「自宅において所持した居た」と書いてある以上それで被告人の事実上支配し得べき状態にあったことがわかるから所持の判示として缺ける處はない。論旨は理由がない。

第七點 銃砲等所持禁止令は後に安田辯護人の上告趣意第五點に付き説示する様に吾国民一般に對し許可なくして銃砲等を所持することを絶對に禁ずる趣旨である。許可の得られない者は所持しなければいいので不能を強ゆるものではない。原審も被告人が許可なくして拳銃を所持して居たことを罰せんとするものであって何等違法はない。

第八點 公判調書に論旨摘録の様な記載があれば吾国裁判所の慣行上大阪地方裁判所構内の特に法廷として築造せられた室において開廷せられたことがわかるのである。しかのみならず刑事訴訟法第三百二十九條第一項にいう公判廷とは同條第二項所定の者が全部列席して開かれた審判廷をいうのである。故に、假令所論の如く判事の事務室で開かれたとしても右第二項所定の人員が総て列席して開かれた以上それが即ち公判廷なのである。論旨は理由がない。

第十一點 刑事訴訟法第七十二條所定の字數記入が無くても挿入は必ずしも無効ではない。書類作成者が正當に挿入したものと認められる場合は有効となすべきである。所論挿入の箇所には作成者記名下の印と同じ職印が押捺してあるので作成者が正當に挿入したものと認められる。然る以上起訴事実の内容は明確であって論旨は理由がない。

辯護人山田鷹夫の上告趣旨に付て

第一點 公判調書に特に公開しなかった旨の記載がない限り公開したものと見るべきことは、既に當裁判所の判例とする處であってこれを改めなければならないとは思へない。(昭和二十三年六月十四日言渡同二十二年(れ)第二一九號事件判決)從って論旨は採用出來ない。

第四點 假令所論の様な掲示があったとしても、それは一地方官廳の行政的處置に過ぎないので所論の様に刑事訴訟法第四百十五條に準ぜらるべきものではない。論旨は理由がない。(因に、右掲示にいう「米第八軍司令部の特別の御厚意」というのは多分米第八軍司令部一九四八年二月二十四日APO第三四三號の指示に記載されたものを指すものと思はれるのであるが、そうすると掲示の字句は妥當でないのである。同指示は「(前略)本延長は、その期間中における申請には一九四六年勅令第三〇〇號により初めに定められた期間中の無登録のものに就ての充分にして簡明なる説明をも包含すべしとの條件附にて認可するものである。もしこの説明が各府縣警察當局により適當であり又信ずべきものと認められた場合は申請人に對し如何なる處罰行爲も行わるべきものではない」というのであって、例へば美術的價値あるもの等に付き疎開とか其他相當の理由があって右勅令所定の期間内に登録出來なかった者が其理由を説明し其説明が認められた場合に限り適用されるのである。本件の如き何等相當の理由なくして無許可所持をして居た者にまで適用される趣旨ではない。)

辯護人安田清治郎の上告趣旨に付て

第一點は十川辯護人の上告趣意第十一(中略)に對する説明で其理由のないこと明であろう。

第二點 所論勾留は不適法ではない。(一)所論巡査の報告にいう執行したる場所とは巡査が刑事訴訟法第百三條第二項により、被告人に勾留状を示した場所を指すのであるから裁判所の指示した勾留すべき場所と異ることが有り得ることはいうを待たない。(二)所論執行したる日時として昭和二十二年十月十三日午前十時三十分とある十月は九月の誤記であること勾留状の日附、巡査の報告日、欄外の拘置所の領收印がいずれも九月十三日である點から見て明である。(三)刑事訴訟法第百條第一項には「勾留状は檢事の指揮に依り司法警察吏之を執行す」とあるから執行した者が巡査であることがわかればそれでいい。巡査の屬する官署の表示が無くてもそれによって勾留そのものが不適法になるものではない。しかのみならず被告人は昭和二十二年九月二十六日保釋になって居り、原審が證據に採った被告人の自白は同二十三年二月十四日の原審公判廷における自白であって保釋後四カ月以上を經過した後のものである。かゝる自白は憲法第三十八條第二項等にいう「不當に長い拘禁後の自白」という中に入らないものと解するのが相當だから此點で論旨は既に理由なきものである。

第四點 論旨中(一)の點は其理由なきこと十川辯護人の上告趣意第八點及び山田辯護人の上告趣意第一點に付て説明した處で明であろう(中略)。從って論旨は理由がない。

第五點及び十川辯護人上告趣意第一及び五點 銃砲等所持禁止令は銃器刀劍の蒐集に關する聯合国最高司令部信號隊メッセージ(一九四五年九月二日)の指示に基き吾国民一般に銃砲刀劍等の所持を禁止する趣旨で制定されたものである。論旨設例の様な所持の認識のない場合(かかる場合は犯意がない)及び法に特別の規定ある場合は別であるが、そうでない限り苟くも犯意があって銃砲等を所持する者は総てこれを罰する趣旨である。而して此場合の犯意としては所論の様な使用する意思等は必要でない。所持の認識がありながら所持して居る場合ならば、それで犯意あっての所持といえるのである。所論の如く譲渡人に返還する意思、官廳に届出でる意思等があったとしても、それは只引續き長く所持する意思がなかったという丈けでそれによって所持して居た間の犯意を否定することは出來ない。所論憲法の各法條が前記の如く聯合軍司令部の指示に基いて制定せられた刑罰法規に違反する行爲を爲した者に對し其法規所定の範圍内において裁判所が相當と認むる刑を科することを禁ずる趣旨でないことは論を待たない。而して本件の場合被告人が所持の認識があったことは原判決擧示の證據で明であり法に定むる例外の場合でないことも明であるから、これに對し同所定の刑を科した原審の措置は毫も違憲でない。其他原審の刑の量定を批難する所論は上告の理由とならない。論旨は採用出來ない。(その他の判決理由は省略する。)

仍て刑事訴訟法第四百四十六條に從い主文の如く判決する。

以上は(中略)辯護人山田鷹夫上告趣意第一點、辯護人安田清治郎上告趣意第四點(一)の部分の理由に對する裁判官真野毅の反對意見を除く外裁判官全員一致の意見である(中略)。

辯護人山田鷹夫趣意第一點、辯護人安田清治郎上告趣意第四點(一)の部分の理由に對する裁判官真野毅の反對意見は左のとおりである。

新憲法の下においては、訴訟事件の審理及び判決が公開法廷で行われたことは、公判調書に記載されることを要する。それはいかなる理由によるか。(一)憲法第三十七條第一項においては、「すべて刑事々件においては被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける權利を有する」と規定して、「公開裁判を受ける權利」を基本的人權として実體法的に国民に保障している。(二)さらにまた憲法第八十二條第一項においては、「裁判の對審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」と規定して、訴訟事件の審理及び判決は公開法廷において行わるべきことを手續法的にも国民に保障しているのである。かくのごとく裁判の公開は、実體法的にも、手續法的にも、憲法上の保障が二重になされているのであって、いかに憲法が、人類の過去の歴史的經驗を通じて、裁判の公正を擔保するために裁判の公開を重要視しているかが窺い知られる。(三)そうして、刑訴第六十條においては、公判期日における訴訟手續についてはその明確を期するため公判調書を作成すべきものとし、特に一定の重要な事項についてはこれを必要的記載事項として記載すべきことを定めている。さらに、刑訴第六十四條によれば、公開期日における訴訟手續は、公判調書のみによって證明することができるとされている。すなわち、訴訟手續の一定の重要事項は、公判調書に記載を要するものとし、若しその記載を缺くときはその事項の存在は當然否定され得る譯である。これによって一定の重要事項はその履踐が公判調書によって保障されることとなっている。言いかえれば、公判調書制度の意義は重要な訴訟手續の履踐を保障するにある。さて、裁判の公開は前述のごとく憲法の重要視するところであり、從ってまた訴訟手續における憲法的重要事項であるから、公判調書においてその履踐が厳に保障されることが憲法上要請されるのである。そこで、從來は舊憲法第五十九條にも裁判公開の規定はあり、舊刑訴第二百八條第一號によれば「公ニ辯論ヲ爲シタルコト又ハ公開ヲ禁ジタルコト及ビ其ノ事由」を公判始末書に記載すべき旨を定めていたが、現行刑訴第六十條第四號においては「公開ヲ禁ジタルトキハ其ノ旨及理由」を公判調書に記載すべきことに改正された立法の經過は、多數意見の述べているとおりである。從って、從來は公判調書に公開禁止の記載がない限り裁判の公開が行はれたものと解釋せられ、又裁判の公開は公判調書の必要的記載事項ではないと解釋せられていたことも多數意見の述べるとおりである。しかしながら、舊憲法時代にはおよそ違憲審査などということは深く考えられたこともなく、総て法律が萬能であり至上であり、裁判官は法律にのみ拘束されたのであるから、前記のような立法並びに解釋が一般に何等の疑義もなく行われたことは敢て怪しむに足らない。

しかるに、新憲法は施行せられ、刑訴應急措置法第二條においては「刑事訴訟法は日本国憲法の制定の趣旨に適合するようにこれを解釈しなければならない」と規定し、また同第二十一條においては「この法律の規定の趣旨に反する他の法令の規定はこれを適用しない」と規定して、刑事訴訟法は全面的に憲法的見地から新な角度によって批判され解釋さるべきことを要求している。これはまことに當然すぎるほと當然のことである。そこで刑訴第六十條について再檢討をすれば、同條列擧の各事項は、單に刑事訴訟法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、その履踐を公判調書上保障することを趣旨としている。しからば、裁判の公開は、前述のごとく憲法上極めて重要視されている事柄であるから、憲法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、その履踐を公判調書上保障することを必要とする。これはすなわち、憲法的見地から同條を批判し解釋することによって當然生ずる結論である。しかのみならず、同條第十二號においては「被告人若ハ辯護人最終ニ陳述シタルコト又ハ被告人若ハ辯護人ニ最終ニ陳述スル機會ヲ與ヘタルコト」を、公判調書の必要的記載事項としているが、これは同法第三百四十九條に「證據調終リタル後檢事ハ事実及法律ノ適用ニ付意見を陳述スベシ。被告人及辯護人ハ意見ヲ陳述スルコトヲ得。被告人又ハ辯護人ニハ最終ニ陳述スル機會ヲ與フベシ」とある規定と照應し、この規定の定める被告人側の最終陳述權を刑事訴訟法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、その履踐を公判調書上保障することを趣旨としたものである。從って、若し公判調書にこの點に關する記載を缺くときは、假令実際上においてはこの手續の履踐があったとしても、この手續の履踐について公判調書以外の證明を一切許すことなく、この手續の履踐が無かったものとして訴訟手續は違法とされるのである。これが公判調書の保障力であって、被告人はこの手續の履踐のなかったことを一々具體的に立證する必要はなく、公判調書にこの點の記載を缺くことを指摘すれば足りるのである。訴訟法において認められた被告人の最終陳述權さえが、かゝる保護を與へられているのに對比すれば、上述のごとく憲法において認められ充分に保障されている被告人の公開裁判を受ける權利は、憲法の要請に基く重要な事項として公判調書に記載し、一層その履踐が公判調書上においても保障さるべきものであると云わねばならぬ。從って若し、公判調書に裁判の公開に關する記載を缺くときは、假令実際上においてはこの手續の履踐があったとしても、この手續の履踐について公判調書以外の證明を一切許すことなく、裁判の公開が無かったものとして訴訟手續は違法とされるのである。すなわち、被告人は、裁判の公開の無かったことを一々具體的に立證する必要はなく、公判調書に裁判公開の記載を缺くことを指摘すれば、訴訟手續を違法ならしめることができる。かく解してこそ憲法における裁判公開の基本的人權は、訴訟法においても公判調書の保障力による保護を受け得るのである。されば、多數意見のごとく、裁判の公開は公判調書に全然記載することを要せず、公開禁止の記載なき限り公開せられたものと解する説は、現在憲法及び訴訟法の解釋として是認することができない。若しかかる解釋を是認すれば、憲法における裁判公開の基本的人權は、公判調書の保障力による保護を毫も受けることを得ない。けだし、裁判公開が実際に行われず公判調書に公開について何等の記載がない場合においても、多數意見によれば裁判は公開されたものと推定され被告人は裁判の公開がなかったことを一々具體的に立證する必要があるからである。かくのごとくであれば、裁判公開の憲法上の保障は空文化せられるのみならず、上述した公判調書制度の趣旨もまた全く沒却せられることとなるに至るであろう。

次に、前記解釋と關聯して公判及び公判廷の意義について少しく述べる必要がある。公判は、一般に豫審に對するものとして觀念されている。豫審に對する言葉としては、本來は本審(ハウプト・フェアハンドルング)という言葉が最も適切妥當であるが、近代刑事訴訟の本審においては、公開主義を中核とし基本原則とするものであるから、端的に公判(公開審判の略語)という名稱が用いられたのである。舊刑訴第二百八條第一號に「公ニ辯論ヲ爲シタルコト」とあるのは、公開主義と辯論主義が行われたことを意味するのであって、その「公ニ」とは公開主義の下にという意義を有するのである。しかし刑事訴訟法が現実に用いている公判という言葉には廣狭の二つの意義があって、狭義において公判とは、公開主義と口頭辯論主義に基く審理、辯論及び判決宣言の手續のみを指稱し、廣義において公判とは、この外これを準備する手續、公判期日外における手續例えば檢證、保釋決定、勾留更新決定等をも含む手續を指稱する。そして、公判期日、公判手續、公判調書又は公判廷という場合には何れも狭義の公判すなわち公開主義と口頭辯論主義によって行わるべき期日、手續、調書又は法廷を意味するのである。しかし、それは必ずしも常に公開主義が現実に行われることを必要とするものではない。公判廷は公開主義によって行わるべき法廷を意味するものであるから、公判廷が開かれた旨又は公判を開廷した旨の記載があれば、そして他に特別の記載がない限り、公開主義による法廷が現実に開かれたことを十分窺い知ることができる。

そこで、本件について見るに、原審第一回公判調書には「昭和二十三年二月十四日大阪高等裁判所第五刑事部に於て……立會公判を開廷す被告人は公判廷に於て身體の拘束を受けず」との旨の記載があり、同第二回公判調書には「昭和二十三年二月二十一日大阪高等裁判所第五刑事部ニ於テ……立會公判ヲ開廷ス被告人ハ公判廷ニ於テ身體ノ拘束ヲ受ケズ」との旨の記載があり、そして他に特別の記載がないのであるから、本件の審理及び判決言渡が現実に公開された法廷においてなされたことは、十分窺い知ることができる。よって論旨は理由がない。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上登 裁判官 栗山茂 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介)

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